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Ikeda Sensei

生活の大地が正法と信仰の大地

アメリカSGI婦人部研修会

Illustration by Tatiana Liubimova / Getty Images

1990年2月27日 創価大学ロサンゼルス分校

Read the English version here.

本日は、全米の各地から代表の方々が集っておられる。遠路、本当にご苦労さまと申し上げたい。(拍手)

婦人部の皆さまに、私がお願いしたいことは、ただ一つ、「だれよりも、幸福になっていただきたい」ということである。(拍手)

人生の目的は何か。それは幸福である。ただ幸福にはいろいろな次元があるし、決して固定したものではない。相対的な幸福はたくさんある。

仏法の目的は、成仏にある。現代的にいえば、絶対的な幸福――いかなることがあっても壊れない、負けない、崩れない、真実の幸福境涯を築くことである。

日蓮大聖人は「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」(新1554・全1143)――すべての人間にとって、南無妙法蓮華経と唱える以外の遊楽、幸福はない――と断言しておられる。

苦しみにつけ、喜びにつけ、何があっても御本尊に題目を唱えきっていく。その強き信心を貫くかぎり、煩悩即菩提の法理で、必ずや、これ以上ないという「所願満足」の人生の軌道となっていく。

この、一切を喜びと満足に転じゆく大境涯の確立にこそ、真実の幸福はある。堂々たる、楽しき、遊楽の人生がある。

広布の組織も、皆さま方お一人お一人に、絶対の幸福をつかんでいただくためにある。皆さまの幸福が目的であり、他は手段なのである。(拍手)

また社会や生活の大地が、正法と信仰の大地である。信心を根本に、どこまでも社会を大切に、生活を大切に、わが家を大切にしてこそ、広宣流布の盤石な進展はある。「信心即生活」が、私どもの永遠の指標である。

さて、本日の婦人部研修会を祝福し、また全米からわざわざおいでいただいた感謝を込めて、創価大学の重宝の一部を、会合終了後、皆さま方にゆっくりとご覧いただきたい。

まず、アメリカの歴代大統領の書簡。これには、ワシントンをはじめ、由緒ある大統領の自筆の手紙が、それぞれの肖像画とともに収められている。

次は、ナポレオンが死の寸前に残した書簡集。また、イタリアの信教の自由を訴えた、別の書簡もある。

第三には、ユゴーの『懲罰詩集』の初版本と書簡。詩集には、ユゴー自筆の献辞、サインが記されている。

さらには、トインビー博士がダレス国務長官にあて、パキスタンの平和を訴えた書簡、ドイツの大音楽家ワグナーが「タンホイザー」の演奏について記した書簡、アメリカ独立の英雄ジョン・ハンコックのサインの入った公文書、そして有名なバルトロメオ・バンゼッティの書簡がある。

バンゼッティのものは、彼が無実の罪で処刑される直前、裁判所に対して再審を求めた十二ページにわたる手紙で、その中で「もし私が死刑になれば、裁判所が殺人罪を犯したことになる」とつづるなど、自由と解放を訴える“魂の叫び”に満ちている。

これらの重宝は、いわば貴重な“歴史の遺産”である。このほかにも、平和・文化・教育の推進をめざすSGI運動の一環として、フランスにヴィクトル・ユゴー文学記念館を創立するなど、さまざまな次元で、人類の宝ともいうべき品々の保存・紹介に力をそそいでいる。こうした活動が、未来へ深い意義をもっていくことを申し上げておきたい。

仏法は生命を映す明鏡

皆さまは、教養と品格ある女性であっていただきたい。知性と優しさのある女性は美しい。周囲も信頼し、安心することができる。また信心を深めるほど、知の世界が豊かに広がっていくのが、仏法なのである。

リーダーも賢明さ、聡明さがないと、多くの人を納得させ、幸福に導いていく使命が果たせない。その意味で、本日は少しむずかしい面もあるかもしれないが、“鏡”をとおして、「信心」の重要なあり方を語っておきたい。(拍手)

昔から日本では「鏡は女の魂」とする。“武士が刀を放さないように、女性は鏡を放さない”と、よく言われてきた。これは、どこの国でも同じらしい。鏡を、それこそ片時も手放さない女性も多いようだ。(笑い)

この「鏡」には、仏法上、じつに多くの意義があり、多くの譬えにも使われている。

大聖人も「惣じて鏡に付て重重の相伝之有り」(新1009・全724)――総じて、鏡については重々の相伝がある――と仰せである。

ここでは、とくに私どもの信心に約して、簡潔にふれておきたい。

御書には、こう記されている。「銅鏡等は人の形をばうかぶれども・いまだ心をばうかべず、法華経は人の形を浮ぶるのみならず・心をも浮べ給ヘり、心を浮ぶるのみならず・先業をも未来をも鑒み給う事くもりなし」(新679・全1521)

――銅鏡等は人の形を映しても、心は映さない。法華経は人の姿(色法)のみならず、心(心法)も映しだす。心のみではない。過去の業因をも未来をも、くもりなく映しだす――。

鏡は、目に見える顔や姿を映す。仏法の鏡は、見えない生命をも映しだす。

鏡は、反射の法則など光の法則を応用して、姿が映るように工夫した、人間の知恵の成果である。  

御本尊は「宇宙」と「生命」の法則に基づいて、“汝自身”の実相を見つめ、成仏できるようにした、仏の「智慧」の究極であられる。

顔かたちを整えるには、鏡が不可欠なように、自分を見つめ、人生を見つめて、より美しく、より幸福な生活としていくには、“生命を映す鏡”が必要になってくる。

ところで、先の御文で「銅鏡」とあったように、昔の鏡は銅、青銅、鉄など、金属を磨いたものであった。錫などをまぜて作ったようである。

こうした金属鏡の最古のものは、中国、エジプトなどでできた。さらに古くなると、石の表面を磨いた鏡、また水鏡などとなる。ともあれ、鏡の歴史は、人間の歴史とともに古い。自分の顔を見たいというのは、人間の本能なのかもしれない。(笑い)

こうした昔の鏡は、現在のガラス製の鏡と違って、おぼろげにしか映らない。だから、初めてガラス鏡を見た時、人々の驚きはたいへんなものだった。

日本人が初めて、ガラス鏡に接したのは一五五一年(天文二十年)。フランシスコ・ザビエルが、伝道のため来日した時に持ってきたとされる。しかし、一般の人々が知るのは、十八世紀(江戸時代後半)になってからである。

あまりよく映るので、この鏡を見てばかりいたせいであろうか、当時の人々は、ガラス鏡のことを「うぬぼれ鏡」(笑い)と呼んだ。浮世絵にも、鏡をのぞきこむ女性の姿が描かれている。ガラス鏡の普及は十九世紀後半(明治時代)になってからである。

ここはアメリカであるが、日本の皆さんのために(笑い)、日本での歴史を紹介させていただいている。アメリカでは、当然、開拓の初めの時からガラス鏡であった。

さて、昔の「銅鏡」は、よく映らなかったばかりではない。すぐに曇った。そこで、しばしば磨かねば使えなくなった。

鏡の研磨には専門技術がいる。それが“鏡磨”の職人である。江戸時代でもっとも有名なのは、富山県の鏡磨師であった。いわゆる“薬売りの人々”と同様、全国を旅し、鏡を磨いて回った。

日蓮大聖人御在世の鎌倉時代も、こうした金属の鏡の時代である。

「一生成仏抄」には「闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし」(新317・全384)と。

――ぼんやりと曇った鏡も、磨けば玉のように輝くようなもので、迷いの生命も磨かない鏡であり、これを磨けば、必ず妙法の光をたたえた明鏡となる――。

あまりにも有名な一節であるが、この御文も、こうした鏡磨の伝統を背景にしている。ともあれ、いかなる人の生命も、本来は、光り輝く明鏡なのである。

違いは、その明鏡を磨いているかどうかである。磨けば仏、曇れば迷いの凡夫である。妙法を唱えることが、生命を磨くことであり、私どもはみずからもこれを実践している。のみならず、他の人にも妙法を教えて、その「生命の鏡」を輝かすよう努力している。その意味では、私どもは生命の鏡磨師の立場ともいえよう。

しかし人間は、顔を磨いても、生命はなかなか磨かない。顔のシミは気にしても、魂のシミは気にしないものである。(笑い)

“魂の顔”を美しく

イギリスの作家、オスカー・ワイルド(一八五六年―一九〇〇年)の作品に、小説『ドリアン・グレイの画像』(西村孝次訳、岩波文庫)がある。

読んでいない人のために(笑い)、小説のストーリーを簡単に紹介すると――美貌の青年ドリアン・グレイは、その美しさから「輝ける青春」とあだ名されている。

ある画家がその美を永遠に残そうと、彼の肖像画を描いた。見事な出来栄えで、絵のほうも、すばらしい若さと美しさだった。ところが、不思議なことが起こった。

ドリアンは、ある友人の影響で、しだいに快楽と悪行の道に分け入る。背徳の生活。しかし彼の美しさは変わらない。輝くばかりに晴れやかである。何年たっても若さも衰えない。

一方、肖像画のほうが、彼のすさんだ生活そのままに、少しずつ醜く変わっていった。

とうとうドリアンは、ある乙女をもてあそび、ついに自殺に追い込んでしまった。この時、肖像画の顔は、見るもおぞましいほど、邪悪な、残忍な表情を浮かべていた。

その後も、彼の悪行が増すにつれ、肖像もいまわしく変わっていった。

ドリアンは恐ろしくなった。この“魂の顔”は、醜いまま、永遠に残るのである。ドリアンが死

んだとしても、その真実を雄弁に語り続ける。たとえ善人になろうとしても意味がない。

ドリアンは決意した。この肖像を抹殺しよう!この絵さえなくなれば、過去と決別できる。自分は自由になれるのだ。彼は絵をナイフで突き刺した。

悲鳴を聞き、駆けつけた人々が見たのは、若く美しいドリアンの肖像と、その前に倒れた、老いた、いやらしい容貌の男(ドリアン)であった。男の胸にはナイフが刺さっていた。

――つまり、肖像は、彼の“生命の顔”であり、“魂の顔”であった。彼の行動の因果を、あますところなくきざみこんでいたのである。

顔は化粧できても、魂の顔はごまかせない。まして因果の理法は厳然としている。

仏法では「陰徳陽報」(見えない善行が、見える幸福の報いとなって表れる)と説く。仏法の世界には、まったくムダがないし、裏表があったり、表面を飾っても何の意味もない。

善悪の因果をきざんだ“魂の顔”は、ある程度、表面に「相」として表れる。イギリスには「顔は魂の鏡」という言葉もある。しかし、もっとも赤裸々に表れるのは臨終の時の相(顔)である。    ドリアンが最期にありのままの醜い顔に戻ったように、臨終の姿には、その人の“生命の顔”がくっきりと映しだされる。“汝自身”の魂の真実が、この時だけはごまかしようがなく表れてしまう。その時に後悔したり、あわてたり、苦しんだりしないための、現在の修行なのである。

“魂の顔”を美しく磨く――そのためには、顔を鏡に映してととのえるように、生命を映す明鏡を持たねばならない。それが「観心」の「御本尊」である。

少しむずかしいが、「観心本尊抄」には、「観心」について、「明鏡に向うの時始めて自具の六根を見る」(新125・全240)――明鏡に向かう時、初めて自分の眼・耳・鼻・舌・身、意(心)を見ることができる――と仰せである。

それと同じく「観心」とは、自分の「心」(生命)に「十界」を、なかんずく「仏界」を観ていくことである。そのために、大聖人が人類に与えられたのが「観心」の「御本尊」である。

日寛上人は「正しく本尊を以て明鏡に譬うるなり」(「観心本尊抄文段」富要四巻)――この御文はまさに、御本尊を明鏡にたとえている――と述べられている。

「御義口伝」には「妙法蓮華経の五字は万像を浮べて一法も残る物之無し」(新1010・全724)――妙法蓮華経の五字、すなわち御本尊は、宇宙の一切の現象を映しだし、欠けるものがない――と。 

御本尊こそ、宇宙全体をありのままに映しだす明鏡中の明鏡であられる。この御本尊を拝する時、わが生命の本来の姿(実相)を観、仏界を涌現できる。

ちなみに、現在のようなガラス鏡が発明されたのは、イタリアのベネチア(ベニス)である。時期は諸説あるが、さかのぼると一二七九年(弘安二年)ごろともされる。..

発明当時、ガラス鏡の製作方法は“秘中の秘”とされた。ガラス職人たちはある島に押し込められて、他に製法がもれることを防いだ。しかし、しだいにフランスなど他の国の知るところとなり、現在はガラス鏡が過去の鏡を一掃してしまった。いわばガラス鏡の広宣流布である。(笑い)

御本尊という、生命の“美と幸福”への明鏡も、その存在を知る人は長い間少なかった。私どもは今、その広宣流布を進めているのである。(拍手)

一切を明白にする仏法の因果律

御本尊は明鏡であり、私どもの信心の一念は、そのまま御本尊に映り、大宇宙に反映される。これが一念三千の法理である。

佐渡の門下、阿仏房に対して、大聖人は「多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば・さにては候はず我が身を供養し給う」(新1733・全1304)と。

――あなたが、多宝如来の宝塔、すなわち御本尊を供養されているのかと思えば、そうではない。かえってわが身(阿仏房ご自身)を供養されているのである――。

御本尊を拝し、荘厳する信心は、そのまま自分という“宝塔”を飾り、荘厳していく。御本尊を拝せば、ただちに、宇宙の一切の仏菩薩が、私どもを守る。謗ずれば、その反対である。

ゆえに、ともかく「心」が大事である。信心の一念は微妙である。

たとえば、勤行や広布の活動で、時には「ああ、いやだな」と思うかもしれない。その心は、そのまま鏡のように大宇宙に映しだされる。いってみれば、諸天のほうでも「ああ、いやだな」と思う(笑い)。これでは諸天善神の本当の力は出ない。

反対に、何事も、「また福運を積んでいこう」と喜んで行えば、諸天も歓喜し、勇んで動きだす。どうせ行動するなら、そのほうが得である。

また「時間のムダではないか」と思う一念で仏道修行すれば、その不信や愚痴の心が功徳を消してしまう。その結果、当然、功徳が自覚できず、「やっぱりムダなんだ」と、変な“確信”を深めたりする(爆笑)。悪循環である。

「本当だろうか」と疑いながら信仰しても、その弱い一念が宇宙の鏡に映って、あいまいな結果になる。強い確信に立てば、福徳は無限大である。

ともあれ、こうした微妙にして厳然たる信心の「心」を、自分でコントロールしつつ、すがすがしく開いていくことである。そうすれば、わが人生も、境涯も広々と開ける。一切が功徳に満ちた

生活になることは間違いない。

この“一念の微妙さ”を会得できるかどうかが、信心の要諦であり、そこに一生成仏のカギがあるともいえる。

ロシアのことわざに、「自分の顔が曲がっているのに、鏡を責めて何になろう」とある。(笑い)

映った姿は自分のものである。それなのに鏡が悪いと怒る人がいる(笑い)。それと同じく、人生の幸・不幸はすべて、自身の生命の因果の姿が反映した結果である。だれのせいでもない。信心の世界においては、なおさらである。

――昔、ある田舎に鏡のない村があった。鏡が貴重品だったころの話である。

都から帰った夫が、土産に鏡を妻に渡した。すると、初めて鏡を見た妻は、映った女の姿に、「これはだれじゃ。さては都の女を連れて帰ったか」(爆笑)と大げんかになった。

これは日本の有名な「狂言」の一つである。

笑い話ではあるが、現実に多くの人々は、自分の生命(一念、因果)が映った影にほかならない人生のさまざまな現象を見て、怒ったり、嘆いたりしている。

「これはだれだろう。私は知らない!」と。

仏法という「生命の鏡」を知らないゆえに、自分をありのままに見つめることができないのであ

る。自分の姿を知らなければ、当然、他の人の人生を正しく導くこともできない。社会現象の本質を見ぬくこともできない。

人間関係もまた「鏡」である。「御義口伝」には、こう仰せである。

「不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩薩を礼拝するなり、鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」(新1071・全769)

――法華経に説く不軽菩薩は、迫害のなか慢心の四衆(僧・尼・俗人の男女)に対して、あなた方も必ず成仏する(仏性がある)と礼拝した。その時、慢心の人々の仏性も、不軽菩薩を礼拝したのである。鏡に向かって礼拝すれば、映った姿もまた、自分を礼拝しているようなものである――。

これは弘教の根本精神を説かれた御文である。

弘教とは、相手をもっとも尊敬し、その仏界を礼拝しての行為なのである。ゆえに、いささかも礼儀に反した、また非常識や傲慢な振る舞いがあってはならない。

相手の仏界に呼びかける思いで、ていねいに、穏やかに、またある時は厳父のごとき慈愛で、語っていくことである。その時、相手の仏界が、鏡のように、こちらの誠実な姿を映して、礼拝し返すのである。

相手を仏のごとく大切にすれば、相手の仏性も、こちらを守ろうとする。人を軽侮し、見くだせ

ば、鏡に映したように、自分が見くだされる。“いつかそうなる”のではない。生命の世界においては、その瞬間に因果がきざまれている。そして時とともに、それがはっきり表れてくる。

生活は“一念の姿”映す鏡

一般的にも「他人は鏡」である。好き嫌いなど、こちらの態度が相手に映っていく。まして、仏法の世界は、磨かれた鏡のように、因果がはっきりしている。

仏子であるアメリカSGIのメンバーを最高に尊び、守り、面倒をみれば、十方の仏菩薩・諸天から守られる。威張れば、威張ったぶんだけ叱られる。とくにリーダーは、この一点を明確に、また深く自覚していただきたい。

私どもは仏子の集いであるゆえに、たがいに尊敬しあっていけば、福徳は「鏡」に「鏡」を映したように、無限に拡大していく。独りぼっちの信仰では、なかなか福運の加速度はつかない。

要するに環境は、よきにつけ悪しきにつけ、自分の生命が映しだされた結果である。しかし、人間はなかなか、そう自覚できない。他人のせいにしてしまう。

御書には、こう述べられている。

「此の人人は我があらぎをば知らずして日蓮があらぎの様に思ヘり、譬えば物ねたみする女の眼を瞋らかして・とわりをにらむれば己が気色のうとましきをば知らずして還つてとわりの眼おそろしと云うが如し」(新2084・全1450)

 ――(大聖人を迫害する)この人々は、自分の荒々しい気持ちを自覚せず、日蓮のほうが、荒々しい心であるように思っている。

たとえば、嫉妬する女性(夫人、正妻)が愛人(第二妻)に対して、眼をギラギラといからせてにらみつける。そんな自分の顔のいやらしさを自覚せず、かえって「あの女の眼つきは、なんて怖いんだろう!」と非難するようなものである――。

大聖人は、このようにたいへんわかりやすい(笑い)たとえで、人間の心理を教えておられる。

また私ども大聖人の門下に対しても、さまざまに悪意で非難し、迫害する人がいる。しかし、じつは「正法の世界」が鏡となって、そこに自分の欠点や野心、欲望を投影し、その自分の影に向かって、悪口している場合が多いのである。

自分が権力欲にとりつかれた人には、どんな無私の善行も、権力を得るための策謀に見える。そういう傾向性がある。同様に名利にとらわれた人は、信念と真心の行動も、売名に見える。金銭欲の奴隷になった人には、金銭にとらわれない人間が、この世に存在することすら信じられない。(笑い)

反対に、あまりにも善意の人は、他の人も、そうだと思ってしまう傾向がある。

大なり小なり、反射した自分の姿を見ている。

アメリカの友も善意の固まりのような人が多いので(笑い)、ある意味で“お人よし”になりがちである。それでは敗北者になってしまう場合がある。

フランスの文豪バルザックは言う。

「世間というものをどんなに悪く言うやつがいても、そいつの言うことはほんとだと思うんだな!」(『ゴリオ爺さん』平岡篤頼訳、新潮文庫)

それぐらい悪人が多い世の中だというのである。

また「世間というものがどういうものか、つまりお人よしとぺてん師の集まりだということがわかるでしょう。どちらの側についてもいけません」(同前)と。

“正しく”(ぺてん師の側でもなく)、しかも“強き”(お人よしの側でもない)人生。厳しき現実を、断じて勝ちゆくための信心である。賢明にならねばならない。強くならねばならない。

また広布の組織にあっても、言うべきことは、はっきりと言っていくことである。

仏法は、権威やリーダーに盲従するだけの“お人よし”をつくるものではない。“賢人”をつくるものである。

婦人部の方々は、正しい仏法の正しい実践を学び、もしもリーダーや男性に道理に反したことがあれば、「正しい方向は、こちらですよ」「正しい基準は、ここにあります」と、明快に主張していただきたい。

大聖人は、男は矢、女は弓と仰せである(御書九七五㌻)。矢は、弓が向けた方向どおりに進んでいく。(笑い)

婦人部の方々が、そのように、胸を張り、男性をもたくましくリードする勢いで、伸び伸びと活躍されゆくときこそ、「ニューアメリカSGI」の本格的な幕開けであると申し上げておきたい。(拍手)

本日の研修会を記念して、アメリカの婦人部の皆さまに、次の和歌を贈りたい。

  清らかな

    また美しき

       法花をば

    アメリカ全土の

       あの地 この地に

最後に、皆さま方のご多幸、ご一家の安穏、アメリカSGIのますますの発展を心からお祈り申し上げる。「シー・ユー・アゲーン(また、お会いしましょう)」

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